文化資本としてのエスニシティ シンガポールにおける文化的アイデンティティの模索

奥村みさ

英語圏文化および民族の主体性としての文化資本を駆使し経済成長を遂げた多民族都市国家シンガポールは、世界史・アジア史の激変のなかで持続可能な成長を目指して文化的アイデンティティを模索し、苦闘している。(2009.8)

定価 (本体5,400円 + 税)

ISBN978-4-87791-198-0 C3036 347頁

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著者紹介

奥村みさ (おくむら・みさ)

略歴

主要著書

まえがき

はじめに

2009年4月より、日本の多くの小学校では英語の授業が実施される。これは、2011年からの新指導要項で小学校5・6年生の英語(外国語)活動が必修となることに伴う移行措置期間が開始されるためである。この早期英語教育をめぐって、小学校内外で賛否の議論が喧しい。日本では長い歴史のなかで海外の文化を受容し、それら異文化を包摂しながら文化を育んできた伝統がある。「和魂漢才」、「和魂洋才」とは日本の伝統的精神文化を守りつつ、外国の優れた技術は吸収する、という姿勢である。

だがそれははたして言語にも言えることだろうか。早期英語教育派がしばしば引き合いに出すのがシンガポールのバイリンガル政策の「成功」である。シンガポールは非西欧圏で唯一、英語を中心とした「国民総バイリンガル社会」を実現しつつある国といわれ、「アジア的価値観を保ちつつ、世界で活躍するためのコミュニケーションの道具として英語に堪能な国民を育成する」ことを目標にしている。

しかし、本当にバイリンガルはバイカルチュラル(二つの異なる文化に精通していること)を意味するのだろうか。「コミュニケーションの道具」と英語をあたかも物質的な道具のような中立的存在、使い手によっていかようにでも機能する存在と表現することは、早期英語教育推進派に好まれる傾向にある。しかし、はたしてそのようなことが可能であろうか。そもそも完全なバイリンガルということは不可能であり、どちらかの言語が優勢になるのは人間が3次元的存在である限り、つまり現実世界で生活者としてある特定の社会に属する存在である限り当然のことである。水村美苗はその著書『日本語が亡びるとき』で以下のように述べている。

日本人が、シンガポールのような国に「国民総バイリンガル社会」の理想を見出すのは、ほかでもない、言葉というものを、「話し言葉」を中心に見ているからである。このことは、強調しても、しすぎることはない。シンガポール人は英語と民族語と両方の言葉を話す。だが、言葉を「書き言葉」を中心に見れば、シンガポール人は英語人である(水村、2008:281)。

英語は言語である限り、その背景に広がる英語圏文化から自由であることはありえない。英語に堪能であればあるほど、英語圏文化・思想・価値観(それを肯定するのであれ、否定するのであれ)の影響は強くなる。現在、シンガポールではまさしくそれが国の存亡をかけたアイデンティティの問題となりつつある。ゆえに、この問題を深く掘り下げて考えることはシンガポール社会の理解という地域研究としてだけではなく、今後の日本の英語教育のあり方を論じる際のひとつの先例研究として意義を持とう。

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