英米法「約因論」と大陸法「カウサ理論」の歴史的交錯

菊池肇哉

16世紀から17世紀初頭にかけ成立した英米法「約因論」と中世からの大陸法「契約的カウサ理論」の両者が深い部分で複雑に絡み合っている姿を「歴史的比較法」の試みを通じて追求した。(2013.3.22)

定価 (本体5,200円 + 税)

ISBN978-4-87791-244-4 C3032 261頁

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目次

著者紹介

菊池肇哉(きくち・としや)

慶應義塾大学で法学修士を取得後、英国留学。

ロンドン大学のUniversity College London, LLM(法学修士号)取得後、オックスフォード大学博士課程入学、Ph.D.応募資格取得後、ケンブリッジ大学博士課程入学。ケンブリッジ大学博士号応募資格者(Ph.D. candicate in Law)

桐朋学園大学講師 日本大学比較法研究所研究員

まえがき

はじめに

今日のEUにおける議論では、しばしば、将来の主権統合への呼び水として経済分野における統合、協力が語られるが、その中の一つの現われとしてツィンマーマンなどを中心として「ヨーロッパ統一契約法」の議論がミレニアムに向けて為されてきて最早久しい。その中での最大の難関は、一つには英米法体系とローマ法に起源を持つ大陸法体系との融合の問題であろう。特に、英国のコモン・ロー体系を無視することは、原則として同じコモン・ロー体系を有する世界最大の経済国家であるアメリカやカナダとのビジネス・チャンスを失うことになりかねない。英国はEU諸国の内で未だ主権統合の一つの核心である通貨統合には参加しておらず、ユーロを発行していない。このようなことは、英国は旧植民地連合であるコモンウェルス諸国及びアメリカなどとの繋がりをバックグラウンドとして持ちつづけており、ヨーロッパから離脱した形でもコモン・ロー法圏の中心国として経済的、政治的孤立を免れうるという要素も多分に関係しているであろう。

しかるに、英米法と大陸法との契約法の統合を考察するに際して最も問題となる特異点は英米法における「約因 consideration」の理論の存在であろう。大陸法では十七世紀以降、契約の諾成主義が成立し、当事者間による合意のみで契約が有効となり法的拘束力が与えられるとしたのに対して、十六世紀から十七世紀初頭に掛けて成立した英米法の約因論は契約の有効性に対し何らかの「対価的牽連性」を基礎として要求したからである。この約因の理論は二十世紀になってからもアメリカの立法論などで多くの批判を受けてきたが、無くしてしまうには歴史的にあまりにも重要な議論であるので、第二次契約法リステイトメント71条に再定義され今日でも主要なコモン・ロー法圏で使用されている。契約の諾成主義 consensualism や意思理論 will theory に慣れた日本人ビジネスマンや法律家にとってアメリカや英国などで契約を交わす際に最も違和感を覚えるのはこの「約因」の要求の存在であろう。

もう一つ、ヨーロッパの大陸法圏内の統合で重要な問題は、フランス法系とドイツ法系の解決策のどちらを取るかと言う問題であろう。このことは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツにより他のヨーロッパ地域を侵略したという事実から、終戦後のECやEUではドイツは加害者側の敗戦国家として表面に出てくることは出来なかったが、現在ではEUの資金面運用の中心として、例えば破綻したギリシャの財政再建において、再びドイツが事実上のヘゲモニーを主張しだしていることなどとも密接に関連する。十九世紀における『ナポレオン法典』影響下に立法をしたフランス法系の国家では「契約が有効に成立するためには何らかの原因・コーズが必要である」という「コーズ・カウサ・原因」の理論が存在するのに対して、ドイツ法は一九〇〇年のBGBにおいて合理化の一巻としてこのカウサ理論を法典自体から削除してしまった。確かに、「すべての当事者間の合意が法廷拘束力を有し、訴権を持ち救済されるべき」であるという近代的な意思主義の要求と、「契約が有効に成立するためには何らかの原因・コーズが必要である」というカウサ理論は矛盾するのである。

十八世紀以来、約因論、カウサ理論ともほぼ同位置にある契約成立に関わる一般理論における不可解 enigmatic な理論として認識されており、しばしば意識的に同一視されてきた経緯がある。ではそのような同一視化というのはなぜ起こったのであろうか?また両理論に歴史的な関係性があるとすれば、それはどのようなものであろうか?そのような問いに答えようとするのが本書の目的である。

本書は現代的な立法目的のために直接的に提言を行おうとするものではない。そのためには、どの国家陣営の利益に付くかや、それとも純粋に効率性を要求するかなどの法学者の利潤が基礎をおく功利的なスタンスを決める必要があろう。しかしながら、筆者は、実務的適用面でどのようなスタンスを取ろうとも、その基礎となる両理論の基礎的理解に関して何らかの透徹した学問的な「見通し」を提供したいと考える。かかる目的が達成されたかどうかは読者諸賢のご判断に任せることにしたい。

また、本書の方法論についてであるが、ラインハルト・ツィンマーマンやジェームズ・ゴードレーなどによって1990年代に先鞭が付けられた英米法の契約法史を単に孤立した存在としてみるのではなく、ヨーロッパ共通の知的発展の中での一分枝として理解しようという方法論に影響を受けている。本書で扱うローマ法の知識は、ローマ古典法を『ローマ法大全』の中から復興させるというより、後の時代にローマ法、カノン法がヨーロッパ共通の学識法として理解されたユス・コムーネに関わるものである。

旧来の研究では英米法は英米法、ローマ法はローマ法、として分離された別の世界として扱われてきた。しかしながら、本書ではコモン・ローの約因論とユス・コムーネのカウサ理論は複雑に関係しながら根の部分でクロスオーバーしているものとして描写されている。排他的関係ではなく、そのような同時存在的関係を可能にしたのは学識法としてのユス・コムーネの補充的性格である。

ヨーロッパ地域の他の国家と同じく、12世紀後半のボローニャ大学における「ローマ法の再発見」以降は、英国においてもコンスタントに途切れること無く、オックスフォード、ケンブリッジなどの大学においてはコモン・ローではなくローマ法、カノン法が教授されてきた。またコモン・ローを形成してきた高位学識法曹の多くは、法曹学院 Inns of Court で実務教育を受ける前に数年、オックスブリッジの法学部でローマ・カノン法の教育を一般教養として学ぶことが多かった。初期中世のローマ帝国の影響の衰退期を通じて、イタリアや南ヨーロッパなどに卑属化したローマ法が言わば慣習法の一種として残ったが、それ以外のヨーロッパの諸地域では実務法学で慣習法が用いられていたというのは英国の状態と同じであった。唯一つ違ったのは、英国の土着慣習法としてのコモン・ローは中世においては例外的に強い中央集権的な王政のもとに組織化され、専門家教育の機関としての法曹学院 Inns of Court により組織化、専門学問化が為されたということである。メイトランドは、英国におけるヨーロッパで初めての全国的な土地台帳である「ドゥームズデイ・ブック」の導入に関して、英国が外来政権によって打ち立てられた侵略王朝であるということを忘れてはならないと述べている。換言するなら、英国のコモン・ローはスカンジナビア法など一部の例外を除いて、ルネサンス期のローマ法の影響の波を超えて(メイトランドのルネサンスにおけるコモン・ローの危機の主張が確かに過度に誇張されたものであったとしても)、唯一、現在までヨーロッパで生き残った慣習法体系なのである。しかしながら、土着慣習実務法と学識法としてのローマ・カノン法学の状態はヨーロッパの他の慣習法地域と大差なかったはずであり、英国でも両者は併存していたはずである。ここでは、フランスの慣習法地域に於けるローマ法使用の状態や、スコットランドにおけるローマ法使用の状態が参考になるであろう。

一国の慣習法体系に付き何らかの包括的、全般的叙述をする場合にはヨーロッパでは必ずユスティニアーヌス帝の『法学提要』が参照にされることになり、本書で扱う、コモン・ロー法源の一つである「権威的典籍」としてのグランヴィルやブラクトンはまさにそのような「慣習法の「法学提要システム」による成文化」の、ヨーロッパ最古の実例であると言うことが出来る。

16世紀からハンガリーやフランスの慣習法、スコットランドの慣習法などが、同じように「法学提要システム」により成文化されるが、そのような延長線上に『フランス民法典』も存在している。13世紀に Siete Partidas を独自の体系で法典化したスペインの例外を除き、11世紀から外来王朝としてイングランドを支配したノルマン朝はヨーロッパ中世において例外的に中央集権的な国家統一を果たして、領国内における統一慣習法を実現した最初の国家なのである。それゆえ、英国は他のヨーロッパ諸国に先駆け「国民的慣習法」を統一的に叙述することが出来たのである。そのような場合に、先例となり得たのは『ローマ法大全』のカズィステックな構成の中で唯一、初学者用教科書として体系的叙述を達成していたユ帝『法学提要』であった。

13世紀中葉より大陸のローマ・カノン法学からの影響が少なくなり、フリータやブリトンなどの新しい権威的典籍の登場によりコモン・ローは独自の中世封建法的発展を遂げる。そのような、「コモン・ローの閉鎖的発展」が終わるのが、15世紀後半、16世紀のルネサンス期である。メイトランド『イングランド法とルネサンス』で知られるようにヨーロッパ大陸法との繋がりはここでまた復活する。そのような15世紀、16世紀のルネサンスにおけるコモン・ロー中に現れたのが、王座部裁判所の『場合訴訟 Action on the Case』の『引き受け訴訟』内における「約因 conderation」の概念であった。このような16世紀コモン・ロー契約法の発展は、封建制度に立脚した優れて物権的、不法行為的構成のコモン・ローから、新しい世界経済に対応した資本主義的・契約的構成のコモン・ローへと脱皮する過程にほかならない。1492年のコロンブスによる新大陸の発見とそれに続く大航海時代の到来により西洋諸国が自国国内経済から世界経済(植民地貿易経済)へと転換していった中で、コモン・ロー法曹たちはコモン・ローの生き残りのために法改革への舵を切っていたのである。1602年スレイド事件終結までの判例法の航跡は正にこのような事実を示している。

また、慣習法において過去に前例のない場合の解決法は、もし当該問題に関わる裁判官がローマ・カノン法学識の持ち主なら、その学識を補充的に援用したであろう。ユス・コムーネ学識は言わば、地域的な慣習法実務に対する補充的な法学識のリザーバーとして機能していた。コモン・ロー裁判所は、地域的な慣習法の管轄権を「王国共通の法」として中央裁判所が侵害し吸い上げる場合に、恐らくは下位の地域的裁判所における実定法的な理由付けをも吸収していった。このような「実定法的理由付け」の管轄権ごとの侵奪・吸収は、王座部裁判所 Court of King's Bench の場合訴訟が「引き受け訴訟 asuumpsit」において、並立する等位の旧来の民衆訴訟裁判所 Conrt of Common Pleas の合意訴訟 action of covenant 及び貸金訴訟 action of debt の領域を管轄権の争いの末、侵奪した時にも起こった。そこで王座部裁判所の裁判官たちが採用した原則は十四世紀に合意訴訟 action of covenant に於ける保護要件が捺印要式証書 deed として定着した際に、捺印文書を持たない合意の保護のための理由付けとしての「対価的牽連性」の要求なのである。これが「対価」や「約因」理論のルーツであるが、その一方で王座部裁判所の裁判官は、「裸の合意は訴権を生み出さない」というローマ法の方言を駆使しながら、上位の補充的学識としてのローマ法における「カウサ=着衣理論」の大枠のスキームを意識していたわけである。

日本では英米法の法制史は英米法の法制史、ローマ法学の法制史はローマ法学の法制史(特にドイツ的な古典ローマ法史)と専門分野分けが厳密に為されている。しかしながら、英国では19世紀のメインやメイトランドの時代からローマ法、大陸法との比較法制史は基本的な視点として存在しており、両分野の専門家は非常に流動的である。これに加えて、コモン・ローの歴史をヨーロッパ共通の法発展の枠組みの中で理解しようとする試みが21世紀におけるEU統合の加速化の中で90年代以降2000年を過ぎて非常に活発になっている。本書はそのような学問的思潮の上に立脚している。日本では未だ物珍しいアプローチであり、英米法学で「中世ローマ法」と「中世コモン・ロー」を横断的にクロスする研究が当然のこととして受け入れられる学術的素地は、必ずしも、整っているとは言いがたいであろう。

本研究に於ける英米法と大陸法の比較法は、ある時代のある法制度を平面的に比較する比較法ではなく、言わば英国コモン・ローが発達してきた歴史のより大きな補充的文化的環境としてヨーロッパ共通法としてのユス・コムーネ学識を理解し、コモン・ローの個別制度の歴史を立体的に理解する「歴史的比較法」の試みである。題名に「交錯」という言葉を使ったのは英米法と大陸法学の両者が深い部分で複雑に絡み合っている様を表現したかったからである。

最後に、両理論について深く考えることは、同時に、逆説的ではあるが、近代的なパラダイムとして成立した「合意は守られるべき Pacta sunt servanda.」という原則や、契約の諾成主義、ひいては法律行為論全体の意思主義について側面から考えることにほかならない。契約が訴権によって守られる要件としてのカウサ=着衣理論や約因理論について考えることは、合意主義、意思主義が存在する以前の契約法の状況を浮き彫りにすることになるからである。

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