法文化(歴史・比較・情報)叢書 20 海の法文化と陸の法文化

森光・中田達也 編
書影『海の法文化と陸の法文化』

本書は次の3部構成をとる。第1部「陸」と「海」の文化遺産の相克、第2部海洋管理における地域伝統と西洋法観念との相克、第3部国際的海洋管理の最前線。(2024.1.1)

定価 (本体3,600円 + 税)

ISBN978-4-87791-325-0 C3032 241頁

目次

    • はじめに 森光・中田達也
  • 第1部 「陸」と「海」の文化遺産の相剋
    • 1 海洋災害と文化財保護法制 久末弥生
    • 2 海洋における文化財保護法と水中文化遺産の保護について 石原渉
    • 3 サンホセ号発見をめぐる積荷などに関する国際合意 ――コロンビアとスペインの2国間協定の着眼点および評価中田達也
    • 4 中国の「改正水下文物保護管理条例」と日本への示唆 白亜寧
    • 5 世界遺産と水中文化遺産 ――両者の規範的相互関係を中心に久保庭慧
  • 第2部 海洋管理における地域伝統と西洋法観念との相克
    • 6 ニュージーランド海洋管理法における二文化協働的挑戦 ――先住民マオリの慣習法的概念の導入と課題玉井昇
    • 7 持続可能な小規模漁業を保障するための任意自発的ガイドラインと太平洋島嶼国における伝統的管理制度の相克・調和 ――パラオにおける漁業資源管理を素材として吉原司
  • 第3部 国際的海洋管理の最前線
    • 8 国連気候変動枠組条約における科学に基づく意思決定:海洋を例として 藤井麻衣
    • 9 「30 by 30」目標に向けた日本の海洋生物多様性の保全制度への展望 青木望美
  • 編者・執筆者

著者紹介

編者・執筆者一覧(掲載順、*は編者)

森光(もり・ひかる)*
1975年生まれ。中央大学大学院法学研究科博士後期課程退学、博士(法学)。中央大学法学部教授。ローマ法。
主な業績: 『ローマの法学と居住の保護』中央大学出版部、2017年、『法解釈学教室』中央経済社、2023年。
現在の関心: 考古学成果を踏まえて古代ローマ法のテキストを再解釈すること。また西洋における法学方法論の展開の歴史。
久末弥生(ひさすえ・やよい)
1972年生まれ。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。大阪公立大学大学院都市経営研究科教授。行政法、民事訴訟法。
主な業績: 『都市計画法の探検』法律文化社、2016年、『考古学のための法律』日本評論社、2017年、『都市災害と文化財保護法制』成文堂、2020年、『変革と強靭化の都市法(都市経営研究叢書第7巻)』日本評論社、2022年。
現在の関心: フランス法、アメリカ法における、都市計画、文化財保護、国土安全保障に関する法制度との比較研究。
石原渉(いしはら・わたる)
1954年生まれ。佛教大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程修了。博士(文学)。NPO法人アジア水中考古学研究所副理事長。東アジア考古学、水中考古学。
主な業績: 「日本における水底遺跡研究と水中考古学」駿台史学57号、1982年、「深湖底発見の縄文土器」『探訪縄文の遺跡西日本編』所収、有斐閣、1985年、「中世碇石考」『大塚初重先生頌寿記念考古学論集』所収、東京堂出版、2000年、『碇の文化史』思文閣出版、2015年、「鷹島海底から出土した元軍の陶製弾(鉄砲)について」学術財研究1集、2019年。
現在の関心: 水中文化遺産の保護、繋船具の進化とその多様性について。
中田達也(なかだ・たつや)*
1969年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程退学、博士(海洋科学)。神戸大学大学院海事科学研究科附属国際海事研究センター准教授。国際法・国際海洋法。
主な業績: 「日中韓の水中文化遺産行政の比較(1・2完)」比較法雑誌48巻3号、2014年、比較法雑誌48巻4号、2015年、「国際海底機構の開発規則策定状況と日本の課題」海の論考OPRI Perspectives(12)、2020年、「漁業補助金規律における『特別かつ異なる待遇』の意義─ACP諸国との関係に着目して」法政治研究7号、2021年。Fisheries Management; Exploration and Exploitation of Non-Living Resources; The Scientific Research, in ENCYCLOPEDIA OF OCEAN LAW AND POLICY IN ASIA-PACIFIC(Brill, 2022).
現在の関心: 国際海事機関における海洋環境規制、漁業補助金規律の意義、深海底資源と国際法の漸進的発達、水中文化遺産と国際法。
白亜寧(はく・あねい)
1990年生まれ。東京海洋大学大学院海洋科学技術研究科博士課程修了、博士(海洋科学)。中国温州大学法学部専任講師。国際法・国際海洋法。
主な業績: 「『水下文物保護管理条例』の改正と課題―『水中文化遺産保護条約』との間で」地域文化研究20号、2019年、「国際法における海洋領有と水中文化遺産―ジェンティリスの学説と一帯一路」法政論叢55巻2号、2019年。
現在の関心: 水中文化遺産と国際法、日本の海洋政策、海洋プラスチック汚染の国際規制。
久保庭慧(くぼにわ・さとし)
1987年生まれ。中央大学大学院法学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。文教大学国際学部専任講師。国際法、国際文化遺産法。
主な業績: 「文化多様性と持続可能な開発?複数の『開発』概念の統合問題を中心に」世界法年報38号、2019年、「持続可能な開発、持続可能な開発目標(SDGs)と文化?国際法の視点からの考察」中央大学社会科学研究所年報25巻、2021年、「『文化遺産』の統合的把握と持続可能な開発?世界遺産条約、無形文化遺産条約、文化多様性条約を中心に」法学新報128巻10号、2022年。
現在の関心: 国際文化遺産法における持続可能な開発概念の機能、国際法における行為体としての「都市」。
玉井昇(たまい・のぼる)
1971年生まれ。日本大学大学院国際関係研究科博士後期課程修了、博士(国際関係)。獨協大学外国語学部交流文化学科教授。オセアニア地域研究、政治発展論。
主な業績: 『国際関係論24講』文教出版、2005年、「ミクロネシア3国における被統治史と現代的教育課題の類似性」国際教育22巻、2016年、「ニュージーランド法における環境権と先住民の権利」地域政策研究20巻、2017年。
現在の関心: オセアニアと周辺地域の歴史教育における日本統治・支配および戦時下関連事項の取り扱い、残存する日本統治時代の遺構や戦跡等の保存と管理、遺産および資源化の動向。
吉原司(よしはら・つかさ)
1973年生まれ。関西大学大学院法学研究科博士課程後期課程単位取得退学、修士(法学)。姫路獨協大学人間社会学群現代法律学類教授。国際公法。
主な業績: 「漁業資源管理におけるRFMO'sの非締約国に対する取扱いについて」『現代国際法の潮流I』所収、東信堂、2020年。「パラオ海洋サンクチユア法をめぐる国際文書・国際法規範とのつながりとその深化?漁業に関わる援助・協力を中心に」太平洋諸島研究10号、2023年。
現在の関心: 国際的漁業管理における協力・援助義務。国際的漁業管理における管轄の水中文化遺産への応用。
藤井麻衣(ふじい・まい)
1984年生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程単位取得後満期退学、修士(法学)。(公財)笹川平和財団海洋政策研究所主任。国際法・国際環境法・国際海洋法。
主な業績: 藤井麻衣・樋口恵佳「国連海洋法条約の下での気候変動への対応」環境法政策学会誌25号、2022年。
現在の関心: 海洋と気候変動、科学的知見に基づく国際法形成。
青木望美(あおき・のぞみ)
1984年生まれ。東京海洋大学大学院海洋科学技術研究科博士後期課程修了、博士(海洋科学)。(一社)海洋産業研究・振興協会副主任研究員、中央大学国際経営学部講師。国際法・国際海洋法。
主な業績: 「排他的経済水域における海洋保護区設定の課題と展望―西アフリカの準地域漁業委員会の要請による国際海洋法裁判所の勧告的意見を素材に」法政論叢54巻1号、2018年、「ニュージーランドの『排他的経済水域及び大陸棚(環境影響)2012年法』の考察─日本における海底鉱物資源の探査・開発への示唆」武蔵野大学政治経済研究所年報14号、2017年。
現在の関心: 海洋保護区の法制度、海底鉱物資源開発のための国際法、国際法の参加主体(市民)。

まえがき

叢書刊行にあたって

法文化学会理事長 真田芳憲

世紀末の現在から20世紀紀全体を振り返ってみますと、世界が大きく変わりつつある、という印象を強く受けます。20世紀は、自律的で自己完結的な国家、主権を絶対視する西欧的国民国家主導の時代でした。列強は、それぞれ政治、経済の分野で勢力を競い合い、結局、自らの生存をかけて二度にわたる大規模な戦争をおこしました。法もまた、当然のように、それぞれの国で完全に完結した体系とみなされました。学問的にもそれを自明とする解釈学が主流で、法を歴史的、文化的に理解しようとする試みですら、その完結した体系に連なる、一国の法や法文化の歴史に限定されがちでした。

しかし、21世紀をむかえるいま、国民国家は国際社会という枠組みに強く拘束され、諸国家は協調と相互依存への道を歩んでいます。経済や政治のグローバル化とEUの成立は、その動きをさらに強めているようです。しかも、その一方で、ベルリンの壁とソ連の崩壊は、資本主義と社会主義という冷戦構造を解体し、その対立のなかで抑えこまれていた、民族紛争や宗教的対立を顕在化させることになりました。国家はもはや、民族と信仰の上にたって、内部対立を越える高い価値を体現するものではなくなりました。少なくとも、なくなりつつあります。むしろ、民族や信仰が国家の枠を越えた広いつながりをもち、文化や文明という概念に大きな意味を与え始めています。その動きを強く意識して、「文明の衝突」への危惧の念が語られたのもつい最近のことです。

いま、19・20世紀型国民国家の完結性と普遍性への信仰は大きく揺るぎ、その信仰と固く結びっいた西欧中心主義的な歴史観は反省を迫られています。すべてが国民国家に流れ込むという立場、すべてを国民国家から理解するというこれまでの思考形態では、この現代と未来を捉えることはもはや不可能ではないでしょうか。21世紀を前にして、私たちは、政治的な国家という単位や枠組みでは捉え切れない、民族と宗教、文明と文化、地域と世界、そしてそれらの法・文化・経済的な交流と対立に視座を据えた研究に向かわなければなりません。

このことが、法システムとその認識形態である法観念に関しても適合することはいうまでもありません。国民国家的法システムと法観念を歴史的にも地域的にも相対化し、過去と現在と未来、欧米とアジアと日本、イスラム世界やアフリカなどの非欧米地域の法とそのあり方、諸地域や諸文化、諸文明の法と法観念の対立と交流を総合的に考察することは、21世紀の研究にとって不可欠の課題と思われます。この作業は、対象の広がりからみても、非常に大掛かりなものとならざるをえません。一人一人の研究者が個別的に試みるだけではとうてい十分ではないでしょう。問題関心を共有する人々が集い、多角的に議論、検討し、その成果を発表することが必要です。いま求められているのは、そのための場なのです。

そのような思いから、法を国家的実定法の狭い枠にとどめず、法文化という、地域や集団の歴史的過去や文化構造を含み込む概念を基軸とした研究交流の場として設立されたのが、法文化学会です。

私たちが目指している法文化研究の基礎視角は、一言でいえば、「法のクロノトポス(時空)」的研究です。それは、各時代・各地域の時空に視点を据えて、法文化の時間的、空間的個性に注目するものです。この時空的研究は、歴史的かつ比較的に行われますが、言葉や態度の表現や意味、交流や通信という情報的視点からのアプローチも重視します。また、この研究は、未来に開かれた現代という時空において展開される、たとえば環境問題や企業法務などの実務的分野が直面している先端的な法文化現象も考察と議論の対象とします。この意味において、法文化学会は、学術的であると同時に実務にとっても有益な、法文化の総合的研究を目的とします。

法文化学会は、この「法文化の総合的研究」の成果を、叢書『法文化―歴史・比較・情報』によって発信することにしました。これは、学会誌ですが学術雑誌ではなく、あくまで特定のテーマを主題とする研究書です。学会の共通テーマに関する成果を叢書のなかの一冊として発表していく、というのが本叢書の趣旨です。編者もまた、そのテーマごとに最もそれにふさわしい研究者に委ねることにしました。テーマは学会員から公募します。私たちは、このような形をとることによって、本叢書が21世紀の幕開けにふさわしいものになることを願い、かつ確信しております。

最後に、非常に厳しい出版事情のもとにありながら、このような企画に全面的に協力してくださることになった国際書院社長の石井彰氏にお礼を申し上げます。

1999年9月14日

はじめに

森光・中田達也

1 本書の基本的視点

地球表面のおおよそ70パーセントは海である。地球という惑星の生物種の圧倒的多数は、海中に生きている。しかし、現在地球でもっとも幅をきかせていると少なくとも自認しているわれわれ人類は、陸上に生息する生物であり、陸上に文明を発展させた。地中海世界に発展したそうした文明の一つにローマ文明があり、ローマ人が発展させた法は、地中海を内海とする帝国を作ったにもかかわらず、陸からの視点にひどく拘束されていた。

周知の通り、ローマ法は、いわゆる大陸法系の国々の法制度の基盤になり、また今日の国際法秩序の基盤ともなっている。そのため、ここにも陸からの視点が継承されている。しかし、全地球規模でものを考え、さらに文化の多様性を尊重しつつ今後の秩序を考えていかねばならない今日にあっては、陸からの視点を根本から見直す必要があるのではなかろうか。はたして海の法文化というものが成り立つか、一種の思考実験として考えてみる必要があるのではなかろうか。これが本書の出発点をなす問いである。

2 ローマ法における海

まずはローマ法において海がどのようなものとして捉えられていたかを簡単にみてみよう。この作業を通じて、ローマ法のもつ陸からの視点なるものが明らかになる。

(1) 法学提要における物の分類

まずはローマ法における物の分類をみておこう。ローマ法史料中に見出される物の分類には、本質的な相違があるとまではいえないにせよ、いくつかのヴァリエーションが存在する*1。ここでは、海を万民の共有物ととらえる見方を含ませている3世紀の法学者マルキアヌス(Marcianus)による分類を取り上げることにする。なお、大筋ではマルキアヌスの分類は6世紀に編纂された法学提要に取り込まれ、後世につたわる。

まずは物の分類の全体像を示した一文(D. 1, 8, 2 pr)を紹介しよう。

物には、自然法により万民に共有される物、共同体の物、誰のものでもない物、個々人に属する物(これは様々な原因により個々人が取得する)がある。*2

ここに示されているように、マルキアヌスは、物を(1)万民の共有物、(2)共同体の物、(3)無主物、(4)個々人に属する物に分類している(ところで、法学提要(I. 2, 1, pr)では、これにpublica(公的な物)をいれた5分類へと変えられている。そして、海は万民の共有物であると同時に、publicaでもあるとされる。)。この最後のものが私人による所有の対象となるもの、つまり私人の間での分配の対象となる物である。そして、各私人は、分配される物を排他的に使用することが許されることになる。こうした私人に属する物ではない物の3類型について以下みていこう。

まずは万人の共有物についてみていく。これについては上記引用の直後の法文(D. 1, 8, 2, 1)に説明がある。

自然法による万民の共有物とは、次のものをいう。すなわち空気と流水である。そして、同じく自然法により海岸もまたここに含まれる。*3

それゆえ、何人も、釣りをするため海岸へとアクセスすることが禁止されることはない。ただしこれは別荘や記念碑や建造物がそこにない限りにおいてである。なぜなら、こうした物は海のように万民法に属するものではないからである。同じことを神皇ピウスが釣り人たるフォルミアとカペナの住民たちに指令したところである。*4

しかし、ほとんどすべての河川や港もまた公のものである。*5

ただし次の例外がある。すなわち、そこに何かを建てた場合、土地の所有者とみなされることになる。しかし、それは建物が建っている間だけのことである。建物が消滅するならば、あたかも帰国権の場合と同様、元の状態が回復されることになる。そして、別の誰かがここに建物を建てれば、(その場所は)その人のものとなる。*6

万人の共有物は、その名の示すとおり、すべての者が利用することができる物である*7。具体例として、マルキアヌスは、空気・海・海岸をあげている。

これが万人の共有物であることの意味は、それを利用することを別の誰かによって妨害されることはないということである。つまり、誰でも利用することができるということである。この考え方は、グロチウスが後に定式化することになる自由海論につながるものである。

ただし、すぐにマルキアヌスがその例外について述べていることを見逃してはならない。すなわち、海岸に私人が建造物を建築した場合、その建築物について(当然それが建っている地面も含めた形で)、私人は所有権をもつことになる。ただし、通常の土地上に建築を行った場合と異なり、建築物が消滅するならば、海岸上の土地に対する権利も消滅する。こうした取り扱いは、海の上に何かを建てた場合にも同じとなる*8。この例外則から、万人の共有物という物は、けっしてそこの一部を誰かが排他的に支配することを完全に排除するというものではなく、あくまでも建造物を建築することを通じての支配が構築されていない場合に限って、万人の利用が許されているにすぎないということができる。

続いて、第二にあがる共同体のものについてみていこう。これについてはD. 1, 8, 6, 1に説明がある。

共同体の物とは、個々人に属するものではなく、たとえば都市国家に属するものである。劇場とかスタディアムとかこれに類する都市国家の共有物である。*9

共同体の物も個々の私人に属することのない物である。そうしたものとして上記引用でマルキアヌスは、劇場やスタジアムをあげている。また、この引用のあとに結く部分で、神聖物等の物もあげているが、ここでの関心とは関係ないので詳述はしない。ローマは、元来都市国家から始まり、それが広大な領域に広がることで帝国を形成するが、都市国家の発想法はその内に強くとどめている。この類型はそのあらわれである。

第三の類型は無主物である。これについてはマルキアヌス自身の文は残っていない。法学提要の記述を借りて説明する。

野生動物や鳥や魚、すなわち地・海・空に生を享けたあらゆる生き物たちは、ひとたび誰かにより捉えられるならば、万民法によりその人のものとなる。なぜなら、もともとは無主物であったのであり、自然の理性により先占者にこれらの物は帰属するものとされる。(...)こうした物を君が捕獲したならば、それを保管下においている限りで君のものであるとみられる。これに対し、君の保管下から逃れ出るならば、もとの自然の自由を回復することになり、君のものであることをやめる。そして誰かがまた先占するならば、その人のものとなる。自然の自由を取得したことになるのは、君の目のとどくところを逃れるか、あるいは見えてはいるものの再びとらえることが困難になったときである。*10

野生動物や鳥や魚は、自然な状態では誰のものでもない。こうした物は、これをはじめて占有(先占)した者の所有物となる。ただ、こうした野生の生き物は、家畜等の物とは異なり、性質的に特定の人間に馴致することができない。そのため、占有者が物理的な支配を失うならば、これに伴い占有を喪失し、所有権も喪失することになる。野生動物は、あらためて自然な状態に回帰し、再度誰のものでもない物に戻る。

上の引用では動物を主として念頭においているが、土地についても無主物はある。まれにではあるが火山活動の結果、海中から土地が表出することがある。こうした土地について無主物である*11。したがって、上記の引用にある野生動物等と同様、それを先占した人のものとなる。しかし、仮に土地がまた海中へと没すれば、その物は消滅し所有権も消滅する。

ここで注意しなければいけないことがある。ローマ法における無主物の議論にあっては、少なくとも典型的なイメージとしては、誰も所有していない物が無主物というわけではない。無主物の典型は、野生動物・鳥・魚のように、自然状態の中で自由に生きているものである。例えば建物や各種の動産のような、本来的に誰かに帰属されることが予定されている物は、ある時点で誰かによって支配されていないとしても、当然にすぐに無主物であるとなるわけではない。

以上、私人の所有物となり得ない物についてのマルキアヌスの分類をみてきた。さしあたりここまででみえる世界観をまとめておこう。彼の把握する世界の中心にあるのは都市国家(civitas)である。ここが人間の基本的な生活の場としてイメージされている。都市国家はそこに属する市民たちのものである。そしてその外側に、自然な世界が広がっている。ここは特定のどこかの都市国家の市民たちのものというものではなく、万人(人間だけではなく動物たちも漠然とここには含められているようにみえる)の共有物の世界である。この自然な世界には、土地と海面とがあり、一応の区別はつけられているが、本質的に海面の特別扱いというものがあるわけではない。万人の共有物の世界は、そのままの状態であれば、誰でもが利用することができるが、そこに建造物を建てるといった資源が投じられるならば、その資源を投じた者による排他的な利用も可能となる。

(2) 無主物先占・遺失物・埋蔵物関係法と海

続いて、無主物先占とそれに関連の制度をみていこう。これは海にて発見された物の帰属をめぐる議論の出発点をなすものでもある*12

前述のように、野生動物・魚・鳥は、自然状態にあって、誰にも属していない物である。こうした物については、それを占有した者がその物の所有者となる。そして、その占有を喪失すればただちに所有権を失う。これと同じような取り扱いが海の中に生成した島にもあてはまる。

海の中に生まれ出た島(めったに生じるものではないが)は、それを先占したものとなる。なぜなら、誰のものでもないと考えられるのだから。*13

ところで、元々誰かが占有し、所有していた物は、現状では誰かによって占有されていないからといってただちに無主物となるわけではない。所有者がある物の占有を失っても、それだけでただちに所有権が消滅するわけではなく、基本的には所有権は継続する。所有権が消滅し無主物となるためには、所有者による放棄があることが求められる。放棄されたことで無主物となった物であれば、これを先占することが可能となる。この点をもっとも明確に示しているのがD. 41, 7, 1である。

物が放棄されたものとして扱われると、ただちにわれわれのものであることをやめ、それを先占する者がいればただちにその者のものとなる。なぜなら、この方法により物はそれを取得したわれわれのものであることをやめるのであるから。*14

逆にいうと、野生動物等本来的に無主物でない物については、放棄がない限り、もとの所有者のものであることをやめない。海上に漂う物、海岸に打ち上げられた物についても同じルールが妥当する。この点は次の法文が明確に示している。

海から拾ってきた物は、その所有者がそれを放棄したものとしてみることができるようになる前には、これを拾った人のものとはならない。*15

最後に埋蔵物について述べておきたい。ハドリアヌス帝は、埋蔵物について、発見者が自分の土地で発見した場合にはその人のものとすること、他人の土地で発見した場合には半分をその土の地所有者のものとすることを定めた(H. A. 10, 6)。埋蔵物とは、「記憶がおよばなくなり、その結果所有者をもたなくなった、ある種の財の預託物である」とパウルスは説明している(Paulus D. 41, 1, 31, 1)。それでは、海に沈んでいる物は埋蔵物なのだろうか。この点についてローマ法源は何も語ってはいない。

(3) 小括

ローマの法学者マルキアヌスは、海を万人の共有物(res communium omnium)に位置付けた。その実践的意味は、誰でもが利用できるということにとどまっている。すなわち、これを誰かが排他的に支配することはできないということまでも意味するものではない。仮に誰かが海の上に何かを建設するならば、その建設物はその人の私的な権利の対象となる。もちろんこの建物が消滅すれば、海のその部分への私的な権利も消滅する。この部分は陸地の取り扱いとは異なる。

海は魚が自然状態で生息する場所である。そこに生きる魚は無主物である。魚を誰か捕獲すれば、その者は魚と所有者となる。しかし、また、一旦捕まえた魚が海に戻ると、魚は自然状態に戻る。この取り扱いとすぐ上で述べた海の上での建設物の取り扱いは同じである。

基本的には、海は人の支配が及ばないところ、及ぼす必要のないところという捉え方をしている。海の資源を分配するというものではない。当時の技術では海の資源としての価値は低く、その分配を議論する必要はなかっといえる。結局のところローマ法における海は、独自の位置づけが与えられているとはいえない。海の一部分に建物建設をした場合、その建物上(とそれに付随する形で海中の地面)の所有権を取得するが、建物が消滅すれば所有権は消滅する。陸上の土地を先占した上で建物を建てた場合(たとえば、海中に出現した島上に建設した場合がこれにあたる)は、そうではなく、建物が消滅したとしても土地に対する所有権は消滅しない。この取り扱いの違いに海の特殊性があるといえるが、特殊性の程度はかなり低い。

海についての法的位置づけを発展させたのがグロティウスである。次に彼の自由海論をみていくことにしよう。

3 グロチウスの「自由海論」

(1) 自由海論について

グロティウスは、1609年に『自由海論Mare liberum』を発表した*16。その中で彼は、海が万人の共有物であり、特定の私人や国による排他的支配の対象となり得ないことを論じた。このような議論を展開する目的は、ポルトガルが東インド通商を独占し、そこに至る海の排他的支配権を主張している状況下にあって、オランダ人にも通商に参画する自由があることを基礎づけることにあったと説明されている*17。海を万人の共有物とする位置づけは、その後の論戦を経て、今日の海洋法の基盤となっていく*18。以下、簡単にであるがグロティウスの自由海論における海の位置づけについてみておくことにしたい。

(2) 自由海論における海について

グロチウスの自由海論における海の法的位置づけは、『自由海論』5章で展開されている*19。下記の引用が彼の主張を明確に示している*20

それゆえに、これらのものは、ローマ人たちが自然法にもとづいて共通のものとよび、また万民法にもとづいて、公のものとよぶものである。が、それは、われわれがのべたように、結局は同一のことである。だからローマ人たちも、それらのものの使用を、ときには共通のとよび、またときには公のともよぶのである。しかしながら、私有財産に関するかぎりでは、それらのものは、正当にも無主のもの、といわれるけれども、それでもなお、たとえば獣や魚や鳥のように、無主のものであるけれども、共通の使用に明白に属せしめられなかったものとは非常に異なる。というのももし誰かが後者に属するものをとらえるならば、それらのものは、私的な権利の対象となりうる。けれども前者に属するものは、全人類の合意によって、私的な所有権からは永久に除外されている。が、それはそれらのものの使用はすべてのものに認められるので、私の財産を諸君が私から取りあげることができないのと同様に、それらのものの使用も、ある一人のものがすべてのものから取りあげることができないためである。

訳文が明瞭であるため内容についてくり返し説明する必要はないであろう。いくつか補足的に説明しよう。

グロチウスは、海は公のもの(publica)とも呼ばれるという。これは、海をres publicaとも位置づけるユスティニアヌスの法学提要の記述(Inst. Just. 2, 1, 5)の記述を意識したものであろう*21

前述のように、ローマ法における海の一部たる空間は、いわば野生動物や魚や鳥と同じ法的な取り扱いがなされる。つまり、鳥や魚を先占すれば所有権が発生し、占有を喪失したら所有権も失い、鳥や魚やは自然の世界に戻る。海岸や海上での建設物についても同じ扱いがなされている。グロチウスも海岸や海上での建設物についてローマ法の立場を踏襲している。グロチウスは、D. 47, 10, 14 Paul. 13 ad Plaut.についても次のように言及している*22

以上の説明によって、パウルス(Paulus)がつぎのようにのべたときの、その言葉の意味がなにであったかも、明らかとなりうるであろう。すなわち、それは、もしある人が海のある部分に対して権利を有するならば、かれは「占有保持の訴」(uti possidetis)(すなわち、占有者としての権利の享有に対する妨害行為の禁止)を適用することができる、ということである。もっとも、パウルス(Paulus)はいう。たしかに、この禁止は私的な訴訟事件に当てはまるべきものであって、公的な事件(そのなかには、諸民族の共通な法にもとづいてわれわれが提起しうる事件も含まれる。)に当てはまるべきものではない。しかし、ここで問題にしているのは、公的または万民共通の事件からではなくて、私的な訴訟事件から生じる権利を享有することについてである、と。なぜなら、マルキアヌス(Marcianus)の証言によると、これまで占有されてきたものや、占有されうるものはいかなるものも、海がそうであるように、もはや万民法には服さないからである。たとえば、もしある人がルクルス(Lucullus)やアポリナリス(Apollinaris)を、かれらが海の小さい部分(diverticulum)に囲いをして作った史有のいけすで魚を釣るのを妨げたとするならば、その場合には、パウルス(Paulus)の意見によると、かれらは、損害賠償の訴を起しうるばかりでなく、妨害行為の禁止、もちろん私的所有権にもとづく禁止を主張することができた、と認められるうる。

この引用からわかるように、グロチウスはいわばパウルス文の縮小解釈をしているといえよう。つまり、パウルス文は海での建設について言及しているが、その海がどういうものであるかは述べてはない。これに対し、グロチウスは、ここにでてくる海は、大洋ではいなく「海の小さい部分(diverticulum)」*23、つまり陸地にくいこんだ湾のようなものを指しているとする。つまり、グロチウスは、海をdiverticulumと、そうではない大洋との区分した上で、パウルス文がいう海は前者であると解するのである。パウルス文のさしている海がこうしたタイプの海の一部であることは確かではあるが、パウルス文にこの区別はない。この区別を巧みに持ち込んだところにグロチウスの創造的解釈の妙があるといえよう*24

それではなぜ大洋に私的な権利が発生しないのか。これについてグロチウスは、「それは非常に広大であるために、なに人によっても占有されえない」*25からであるという。占有(possessio)をローマ法の伝統的意味、つまり体と心による(corpore et animo)支配*26とみるならば、大洋を物理的に支配することは確かにできないことになる。ここにおいても、グロチウスはあくまでもローマ法の概念を使っている。このような議論の仕方こそがその後、彼の主張が支持されていく重要な要因なのではなかろうか。

(3) 小括

グロチウスとローマ法との相違は、海を内海と大洋とにわけ、内海については占有は可能であるとしつつ、大洋はできないとする点にある。そして、ローマ法源の中にでてくる海の中の私物については前者の話であると位置づける。これにより、大洋たる海を占有することができず、その当然の帰結として所有することができないという結論をローマ法と調和するものとしてグロチウスは展開している。

こうしてみてみるとグロチウスの議論はローマ法的枠組みからそう遠くにいっているわけではないことがれかる。もろろん、大洋について、陸の理屈の適用を排除することで個人や国家の排他的支配の対象にならないとする点で海の特別扱いをしており、その範囲で海独自の理論を展開しているといえなくはないが、ローマ法からの変化は、少なくとも解釈論的にみれば、ささやかなものといえよう。つまり、ローマ法的な陸地の理屈を使っているという点は維持されているといえる。ただ、その結果導かれた海洋の自由という原則が後世に大きな影響を与えたことは疑いを容れないものであるが。

4 本書の構成

このように、海は、独自の法理論的枠組みの中でとらえられてきたとはいえない。ここでの分析は、ローマ法、グロチウスの議論一端を摘示ものにすぎないが、少なくともこのような見方を仮説的にとっていくことを正当化することはできるのではなかろうか。

本書では、海の法文化というものを考える余地があるのかを考えることを試みてる。果たして陸の法文化と対置されるような海の法文化というものを語ることはできるのであろうか。陸の法文化とは異なる海の法文化が存在するのであろうか。それとも、海の問題は、陸の理屈の類推の場なのだろうか。また、仮に海の法文化なるものがあるとして、それは単一のものなのであろうか。それとも、多様な海の法文化が存在するのであろうか。

本書は3部構成をとる。第1部は、「陸」と「海」の文化遺産の相克を共通テーマとする。文化財は、大雑把な言い方をすれば、特定の個人の排他的支配に服するものではなく、多くの人々の共通の財産という性質をもつ。これは、ローマ法の万人の共有物の発想に近いものがある。この発想を応用しつつ、陸上にある諸種の文化財の保護が図られてきたが、今日ではさらに海上・海中の財物についても同様の保護の必要性が指摘されている。第1章では、アメリカ合衆国における文化財保護の現状が詳述される。第2章では、水中考古学の専門家による水中での発見物の取扱の問題が実践的に説明される。第3章では、コロンビア沖で発見されたスペインの財宝の国際法上の処理の困難な現状について説明される。第4章では、中国における水中の文化財の取扱法制の紹介がなされる。第5章では、世界遺産の保護についての枠組みや知見の海への応用の可能性が検討される。

第2部は、ローマ法の物の把握を中核におく法思考の限界性とその克服がテーマとなる。第6章では、ニュージーランドにおけるマオリ族の自然観と既存の海洋秩序との相克の克服が取りあげられる。第7章では、パラオにおける漁業資源管理と既存の海洋秩序との相克が問題となる。

第3部は、現在、国際的海洋管理において生じている問題がとりあげられる。ここでも、海についての既存の見方の限界性が問い直されている。第8章は気候危機への対応、第9章は海洋生物多様性の保全という局面における国際的取り組みの現状が分析される。

*1: ガイウスの法学提要2巻の冒頭(Gai. inst. 2, 2-17)のものや、Inst. Just. 2, 1のものがある。

*2: D. 1, 8, 2 pr: Quaedam naturali iure communia sunt omnium, quaedam universitatis, quaedam nullius, pleraque singulorum, quae variis ex causis cuique adquiruntur.

*3: D. 1, 8, 2, 1: Et quidem naturali iure omnium communia sunt illa: aer, aqua profluens, et mare, et per hoc litora maris.

*4: D. 1, 8, 4 pr: Nemo igitur ad litus maris accedere prohibetur piscandi causa, dum tamen villis et aedificiis et monumentis abstineatur, quia non sunt iuris gentium sicut et mare: idque et divus Pius piscatoribus Formianis et Capenatis rescripsit.

*5: D. 1, 8, 4, 1: Sed flumina paene omnia et portus publica sunt.ここでいうpublicaは、Inst 2, 1, 2のように、万人の共有別とは別の類型となっているわけではない。

*6: D. 1, 8, 6 pr: in tantum, ut et soli domini constituantur qui ibi aedificant, sed quamdiu aedificium manet: alioquin aedificio dilapso quasi iure postliminii revertitur locus in pristinam causam, et si alius in eodem loco aedificaverit, eius fiet.

*7: O. Behrends, Die allen Lebewesen gemeinsamen Sachen, Festschrfit Hermann Lange, Stuttgart/Bern/Koeln, 1992, S. 3.; M. Schermaier, Res Communes Omnium: The History of an Idea from Greek Philosophy to Grotian Jurisprudence, Grotiana ((30)) (2009) 44.

*8: D. 47, 10, 14をみよ。D. 47, 10, 14 Paul. 13 ad Plaut.: Sane si maris proprium ius ad aliquem pertineat, uti possidetis interdictum ei competit, si prohibeatur ius suum exercere, quoniam ad privatam iam causam pertinet, non ad publicam haec res, utpote cum de iure fruendo agatur, quod ex privata causa contingat, non ex publica. ad privatas enim causas accommodata interdicta sunt, non ad publicas.(確かに、海の固有の権利がある者に帰属した場合、不動産占有保持特示命令がその者に帰属する。彼の権利の行使が禁止された場合に。なぜなら、私的な利益にこの物は関係しており、公的なそれにではないのだから。なぜなら、収益する権利についての訴えが起こされるならば、それは私的な利益に基づくものであって公的なそれではないのだから。なぜなら、この特示命令は、私的な利益に関係するものであって、公的なそれにではないのだから。) この法文についての研究として、G. Klingenberg, maris prporium ius in D. 47, 10, 14, in: Tijdschrift voor Rechtsgeschiedenis/Revue d'Histoire du Droit/The Legal History Review, 72 (2004) 37がある。

*9: D. 1, 8, 6, 1 Marcian. 3 inst. Universitatis sunt non singulorum veluti quae in civitatibus sunt theatra et stadia et similia et si qua alia sunt communia civitatium.

*10: I. 2, 1, 12: Ferae igitur bestiae et volucres et pisces, id est omnia animalia, quae in terra mari caelo nascuntur, simulatque ab aliquo capta fuerint, iure gentium statim illius esse incipiunt: quod enim ante nullius est, id naturali ratione occupanti conceditur. (...) quidquid autem eorum ceperis, eo usque tuum esse intellegitur, donec tua custodia coercetur: cum vero evaserit custodiam tuam et in naturalem libertatem se receperit, tuum esse desinit et rursus occupantis fit. naturalem autem libertatem recipere intellegitur, cum vel oculos tuos effugerit vel ita sit in conspectu tuo, ut difficilis sit eius persecutio.

*11: D. 41, 1, 7, 3 Gai. 2 rer. cott.

*12: これについてのの文献は多数あるが、とりわけ参考になるのが、J. F. Gerkens, Aneignung herrenloser Sachen (occupatio), in: Babusiaux/Baldus/Ernst/Meissel/Platschek/R¨ufner (Herausg.), Handbuch des R¨omischen Privatrechts, Mohr Siebeck 2023, 1097ff.である。

*13: D. 41, 1, 7, 3 Gai. 2 rer. cott.: Insula quae in mari nascitur (quod raro accidit) occupantis fit: nullius enim esse creditur. in flumine nata (quod frequenter accidit), si quidem mediam partem fluminis tenet, communis est eorum, qui ab utraque parte fluminis prope ripam praedia possident, pro modo latitudinis cuiusque praedii, quae latitudo prope ripam sit: quod si alteri parti proximior sit, eorum est tantum, qui ab ea parte prope ripam praedia possident.

*14: D. 41, 7, 1 Ulp. 12 ad ed.: Si res pro derelicto habita sit, statim nostra esse desinit et occupantis statim fit, quia isdem modis res desinunt esse nostrae, quibus adquiruntur.

*15: D. 41, 1, 58 Iav. 11 ex Cass. Quaecumque res ex mari extracta est, non ante eius incipit esse qui extraxit, quam dominus eam pro derelicto habere coepit.

*16: 伊藤不二男『グロティウスの自由海論』有斐閣、1984年、5頁以下。

*17: 伊藤・前掲4頁。

*18: 山本草二『海洋法』三省堂、1992年、27頁以下。

*19: 伊藤・前掲214頁以下、本田裕志『グロティウス海洋自由論セルデン海洋閉鎖論I』京都大学出版会2021に訳文がある。原文は、Hvgonis Groti, Mare liberum sive De iure quod Batavis competit ad Indicana commercia. Dissertatio. Ultima editio., Lugdvni Batavoru, ex officina Elizeviriana, 1615による。

*20: 訳文は伊藤・前掲225頁による。なお本田訳では58頁。

*21: マルキアヌス(D. 1, 8, 4, 1 Marcian. 3 inst.)は、河川と港がpublicaというが海がそうであるとはいわない。Inst. Just. 2, 1, 1は、マルキアヌスにならって海は万人の共有物と位置づけてもいる。

*22: 伊藤・前掲訳229頁。

*23: これは、「憩室」と訳すべきではないか。

*24: 海のこうした区分についてはグロチウスは次の箇所でもくり返している(伊藤訳234頁)。「われわれは、これまでのところで、いかなる国民もいかなる個人も、海そのものに対しては、(といっても、われわれは、海の狭い部分(diverticulum)は、これを例外と考えるので、)いかなる私的な所有権をも要求することができない、ということを論証した。」

*25: 伊藤・前掲225頁。

*26: 例えばD. 41, 2, 3, 1 Paul. 54 ad ed.をみよ。